【起】
おろしたての白衣を身にまとった研修医の私は岐阜大学医学部付属病院産婦人科のカンファランスルームに居ました。故小渕官房長官より平成の年号が発表されてから半年、太陽光を全て吸収した草木は常緑樹さえもまぶしい季節でした。が、脳神経外科志望だった私の胸中はそのまばゆい光や新緑と相反し靄を彷徨っていました。それもやむを得ないと自分への戒めと運命で冷めており、希望や夢などという言葉とは遠い新入医局員でした。幼少より期待されながら挫折を味わい「自分は我を通す資格などない」と親への慈悲と深いコンプレックスを秘めていました。2度と失敗を許されなかった私は医師としての机上の知識は豊富でした。しかし、そんなものが無意味であることを認識させられるのに時間は要しませんでした。
【承】
カンファランスルームで胎児のエコー所見をプレゼンする先生が居ました。
「Overlapping finger」「Rocker bottom feet」「Pig-tail
katheter」…聞いたことのない言葉が次々と耳に突き刺さりました。「国試の知識などスタートラインにすらならない…気持ちを切り替えて臨床の知識と技術を習得しないと」と危機感が私のスイッチを押し、前向きに仕事に励み精進しました。そのうち価値観が合う仲間と接することもでき、「○○ヨットスクール」とまで比喩された過酷な大学院生活も乗り切り基幹病院での勤務となりました。年相応に信用される中堅医師となり日々漫然と勤務していた、いつも通りの夕暮れでした。最愛の長女が電車に轢かれました。ピカピカの小学生でした。
【転】
がむしゃらに走ってきた医師生活に人生の警笛と遮断機によって急ブレーキを踏む機会が訪れました。以来ネガティブ志向の「臆病者」と化した私はそこで確かなことを認識しました。①予期せぬ事態は「自分は大丈夫」という保障はない②どんな同情のことばを貰おうが「人間は経験したことしか本当の気持ちはわからない」③「平凡や当たり前なことが1番の幸福である」ことの3つです。そして気持ちが整理できず悲しみが癒えない勤務の中、「妊婦健診はエコー検査が主体なのに胎児発育やダイナミックなことだけ診て満足していていいのだろうか?親が子を思う気持ちは胎児期でさえ崇高で計り知れないものなのに簡単に“順調ですよ"と断言していいのか?」と今までの自分自身と当時の産科診療に疑心暗鬼となり苦しみました。なぜなら当時は他科に比して産婦人科医師の超音波診断の技能に差があるのは否めない事実でした。「児の生命予後は運で片づけられてしまうのではないか?」権力も発信力もない私は1人で悩むほかすべがありませんでした。それなら自分ができることをして自分だけでも変わろうと思いました。多くの親はお腹の中で「予期せぬ事故」など起こるなんて思ってもいません。当たり前のことが当たり前でなくなったことを経験した家族のみが本当の悲しみや怖さを知ります。その観点より私はお腹の中で「不慮の事故」が発生した家族の気持ちは誰よりもわかる筈です。自分のもとに受診した妊婦はより詳細に診て助かる命は助けようと考えました。その為には心臓を含めた胎児スクリーニングの熟練が必要と考え、時に長良医療センターの先生方にご指導してもらいました。振り返れば、いつのまにかこの岐阜の地の諸先輩方の指導とポリシーに刺激され、また同年代の先生の公私にわたる繋がりがあったからこそ今の自分のスタイルがあると確信しています。それとともに医療、特に産科にとって「臆病ものこそ最大の武器」としてきたことに卑下の念はありません。
【結】
日本ではほとんどの妊婦が快適性を求め一次施設に受診します。役割分担なので悪いことではありません。しかし役割分担というのであれば一次施設での診察がお腹の赤ちゃんの人生を左右するといっても過言ではありません。高次医療施設でしっかり管理して小さな命を助けるために底辺である一次施設の繊細な診断力も鍵を握っていると思います。その使命を担っている1人の産婦人科医師としての生き甲斐を感じながら胎児のスクリーニングをしています。そしてスクリーニングで異常がないのを確かめたときは……..
いつも心でこう呟きます。
「無事に産まれて来たらね、電車や車になんか轢かれないでね!!」
その一瞬は医師ではなく親の目線で。
以上です。