「もし人生に意義があるものとすれば、出生時の第一声を助ける仕事は最も意義がある。」
と云う言葉を分娩室の入り口に掲げ、瑞浪の地に赴任したのが昭和50年。約3年間の一人医長で約600分娩。昭和52年12月、39歳3カ月で、みずなみ岩垣産婦人科を開院しました。
上記の言葉は確かロチェスターのメーヨークリニック産科病棟に掲げてあるとのことでこれを座右の銘として、名古屋の病院での10年間に経験した1万の分娩と同じ数の1万人の赤ちゃんの第一声を助ける仕事が、私に課せられた残された30年間の使命である、と意気込んでの開業でした。
以来、28年間、平成17年12月28日の8868人目の分娩を最後に、産爺さんの仕事を卒業致しました。
それから卒後10年、喜寿を迎え、人生の終焉近くに至り、つらつら考えて見ますに自分の仕事はやはり、お産以外はなかったかな、との心境です。
私の開業当時は、分娩は医者の仕事として手術の出来ない産婆さんからお産を奪った時代です。当然、医者自身が産爺さんに徹して産婦の分娩介助に邁進、開発されたばかりの分娩監視装置を駆使して異常と診断されればただちに手術・・・・
その為、自院に釘付け、パスポートを一度も持った事のない生活、土・日曜日の2日間掛けて、やっと7ホールのゴルフ‥毎日、妊婦という重い荷物を背負っての28年間でした。
1日1分娩、1人の医者でこなすのは将に文字通り待ったなしの28年間でした。
しかし、この歳になって、ふり返ってみると、この28年間は、最も意義ある人生だったと思われます。
生来の怠けもの、怠慢、菲才な私を無理やりにでも、意義ある生活に導いてくれたのは“田舎で医者をやっていくためには、お産を覚えてこなければダメ”との親父の一言でした。
お陰様で、最も意義ある人生を28年間過ごせたと思っています。
みずなみ岩垣産婦人科 岩垣重秋